リーディング、または小さな石の愛で方について

2025年1月16日木曜日

appreciation-etc essay tanka


……その小さい緑の古宝玉は(中略)而して時と処とわたしの気分の相違により、ある時は桐の花の淡い匂を反射し、また草わかばの淡緑にも映り、或はあるかなきかの刺のあとから赤い血の一滴をすら点ぜられる。(北原白秋「桐の花」より)


「#リプライされたCPのイメ短歌イメ俳句をツイートする」というハッシュタグを使ってTwitterで遊ぶことがある(1)。
やっていることはタグ名そのままだ。つまり、誰かからリプライで指定されたCP(2)やキャラクターのイメージソングならぬイメ短歌やイメ俳句(たまに川柳)を三つほど独断で選出、ハッシュタグを付けてtweetしている。漫画やアニメのキャラクターなどが「お題」になることが殆どだけど、宝塚俳優やフィギュアスケート選手の名前が「お題」になることもある。創作イベントの帰り道、友人と行ったカラオケボックスで、これあのキャラのイメージソングに良くない? と言いながら歌うのに少し似ている、かもしれない(3)。

イメ短歌(4)の選出プロセスはいろいろだ。「お題」を見た瞬間に具体的な作品が浮かぶこともあれば、あの人の作品が合いそうだと目星を付けて本を捲るときもある。ピクシブ百科辞典(5)に書かれた「お題」の解説を反芻しつつ(指定されるCPやキャラクターはわたしの知らないものである時もある)アンソロジーを頭から捲るときもある。二次創作短歌は「キャラクターの感情や魂の色を言葉の形にしている」という意見(6)があるけれど、短詩の本を捲っているわたしはまさしくCPやキャラクターの「たましいの色」(と、リプライした相手が思っているであろうもの)に近しい作品を探している感覚がある。それは同時にキャラクター達を取り巻く「世界の色」でもあるのだろう。

選んだ作品はキャラクター達のイメージに合っていると言われることもあるし、あまりぴんと来なかったかなという時もある。喜んでもらえれば嬉しいし、すかさず作品の掲載されている本をお勧めしてみたりもする。当たるも八卦、当たらぬも八卦。恐らくこれは半分は短歌、もう半分はコミュニケーションの遊びなのだ。そういえば占い師が占う相手の情報や無意識の欲望を読み取ることを「リーディング」というらしい。つまり「読む」こと。
……つまり、わたしは「何を」読んで、tweetしているのだろう?

短歌のBL読み、百合読み、CP読みなど(7)の行為は、敢えて分けるなら「そのようにしか読めなかった」場合と「敢えてそのように読む」場合とがあると思う。本やTwitterでその一首を見た瞬間、どう読んでもこれはBLだ、あのCPのことだと「しか読めなかった」経験はわたしにもある。
「#リプライされた~」でわたしがtweetする歌はしかし、少なくともわたしにとっては「そのようにしか読めなかった」歌とは違うものだ。だって「お題」ありきなのだから。
各人の作風や語彙の癖などを頼りにしつつ、もらった「お題」を念頭に歌集やアンソロジーを捲るわたしは、そこに掲載されている作品以外の情報……つまり、その作者が他にどんな作品を作っているか、その歌が連作のどこに配置されているかといった歌を取り巻く「場 」(8)を一首一首、可能な限り退けながら読んでいる気がする。そうしてTLに流される三首はハッシュタグやお題と一緒にtweetされることでキャラクターやCPという新たな「場」を与えられ、それに応じたイメージを読者の中に描かせやすくする……小難しく言えば多分、そんなことが起きている。

だから。

何も意識せず本を捲っていてこの作品が「そのようにしか読めない」という事態は恐らくかなり生じにくいだろうな、でもこういう読みも一首単位なら可能じゃないですか……と思いながら作品を差し出す、時もある。

鷹追うて目をひろびろと青空へ投げおり父の恋も知りたき / 寺山修司 (9) 

久々で熊がとれたが其の肉を 
何年ぶりで食うたうまさよ /違星北斗 (10) 

野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた/服部真里子 (11) 

アシㇼパ(漫画「ゴールデンカムイ」(12))

アシㇼパは失踪した父親を捜す「新しい時代のアイヌの女」だ。最初に上げた寺山の歌の作中主体についてふとこれがアシㇼパ、つまり女だったらと考えた瞬間、歌の纏う抑圧の気配が薄くなったような、不思議な感覚に驚いたのを覚えている。けれど連作「蜥蜴」の一首としてこの歌を読んだ時、この歌に解放感を感じる人はどれだけいるだろう。そもそも作者・寺山修司という時点でこの歌の作中主体に女性を想定することはほぼ無いのではないか。
現実世界には抑圧的な父娘の関係も存在すると思うので、わたしの感じた「解放感」はわたしの持つ偏った価値観によるものかもしれない。けれど浮かぶイメージの差に驚いた瞬間、もしかして自分はずっと寺山の歌を「寺山修司」、つまりこの歌の作者が様々なジャンルの創作を通じて構築しようとした、トレンチコートを纏い煙草をふかす「男」という強烈なイメージをベースに、時に歌の中に詠まれていないものまで読んでいたのではないかと気づく。

コンスタンツェ! 今夜も軽いスカートで走り抜ける無我夢中の人生 /中山明(13) 

脱出成功、だね。このつぎの自販機でおしるこ百円だから買おうね  /山中千瀬・笠木拓(14) 

「ブラジャー買おかな」「ほんまに買えよ」かにキムチ /黒岩徳将(15) 

ポプ子とピピ美(漫画・アニメ「ポプテピピック」(16) )

俳句アンソロジー「天の川銀河発電所」の黒岩徳将のページで最初に掲載されている句は「夜のシャワー俺が捕つたら勝つてゐた」だ。一人称「俺」、男性名と思われる作者名から、このアンソロジーで黒岩の句を読む人は「ブラジャー買おかな」「ほんまに買えよ」という会話を男性同士の会話とイメージすることが多い、のではないか。ではこれを女性同士、つまりポプ子とピピ美の会話だと仮定するとどうなるか。実はそんなに違和感がない……としたらそれはなぜだろう。ギャグ漫画のキャラだから? 現実世界のしゃべり言葉には男女差がないから? 
一方、ブラジャーとは「女性が(17) 胸部に着用する下着である」というwikipediaの定義を前提にすればこの会話の、例えば発言者のブラジャー買いそう度や結句「かにキムチ」との響きあいは会話する人物たちの性別によって変化する(この会話を男女のものとすればまた別の景色が生じるだろう)。もちろん、会話する人物が男女どちらであっても変わらない部分もあるはずだ(ではそれこそがその歌の「たましいの色」……なのだろうか、本当に?)。

ある種の歌は「読みのモード」を切り替え(18) 作中主体の性別を揺らすことで劇的に風景を変える。つまり、「敢えてそのように読め」ばひとりで複数の「読み」を持つことが可能だ。だがそもそもそれができるのはそこに不均衡が存在するからではないか……。そう気付いた時、「そのようにしか読めなかった」読者の存在もまた照らし出される。そしてそれぞれの「読み」は、互いを打ち消し合うものでは決してない。

  *

国語の授業で「この作品を作ったとき作者はこういう状況で……」といった解説がされて「結局それが正解なのか」「そういう背景だから感動しなきゃいけないのかな」と思ったことはないだろうか(わたしはある)。テキストのみを読むことでこうした作者ありきの読み方や、作品内容から作者のプライベートを詮索するような行為は回避される。短歌の一首評や、作者名を明かさないで行われる歌会はそのための取組なのだろう。
けれど「#リプライされた~」をすればするほどわたしが思うのは、作者を含む、その作品に関する情報を退けさえすれば、自分はテキストだけを「純粋に読める」のだろうかということだ。

例えばこの歌の作中主体が男でなく女だったら? あの作品のあのキャラだったら?

「読みのモード」を意識的に切り替え、歌が持っていた「場」とは別の「場」を用意することでようやくわたしはその作品の別の可能性に気付くことができる。逆に言えば、そうしなければ気付くことが出来ない。テキストだけを読もうとすればするほど、「読む」とは社会という「場」の中に置かれたわたし自身の、偏見の開陳作業に近づいていく。

そもそも歌集に収録されているすべての歌がテキストだけで読める歌として作られているのだろうか。実作者の境遇や前後の掲載歌など、三十一文字のテキスト外の情報を補足しないと読み解けない、いわゆる「一首の屹立性の低い」歌はしばしばあるように思う。仮に一首の屹立性が高くても、読者の側が「場」の存在抜きには三十一文字の解釈さえおぼつかない時だってある。


春寒の摩天樓より人墜ちて何のひびきもなし 墜ちなほせ /塚本邦雄(19)

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの /池田澄子(20)

蔵焼けて障るものなき月見哉 /水田正秀(21)

リヴァイ兵長(漫画「進撃の巨人」(22) )


塚本の歌(と評)を初めて読んだ時わたしが思い浮かべたのはN.Yテロ事件のニュース映像だった。そのため「堕ちなほせ」という結句は不可解・不快な印象しかなかった。けれどリヴァイ兵長、過酷な世界で部下を何人も喪いながら戦場に向かう人物という「場」をふとこの歌に添えてみた時、「何のひびきもなし」、そこから一文字空けての「堕ちなほせ」は世界の理不尽さへの叫びとして突然「腑に落ちた」。それは塚本が戦争で感じた理不尽さと響きあう……かどうかは知らないが。ただわたしの場合、作品テキスト及び塚本に関する教条的な知識だけでこの歌から世界の理不尽さなどを感じ取ることはできなかったのは確かだ。
ここでは漫画の登場人物を使ったけれど、人生の物語という「場」を歌に添えるのは歌を読み解くための強力すぎるほど強力な手法だ。「#リプライされた~」のハッシュタグで遊ぶわたしにも、その作品の制作背景を知っているがゆえにハッシュタグでは紹介しないと個人的に決めている作品は存在する。戦争、死別、災害。テキストを取り巻く「場」の存在を全くなかったことにすることは時に暴力的な行為となりうる……だがそれは「何」に対する暴力なのだろう?

歌一首で、連作で、歌集で。レイアウトやフォントで。短詩作品を取り巻く「場」について、作者は様々な趣向を凝らす。しかしBotなど、SNSにおいて短詩作品をひとつずつweb上にばら撒ける今、短詩作品は作者からも、紙媒体の「場」からかつてより切り離しやすくなった。
Twitterの登場は短詩に親しむ人を増やしたけれど、それは連作や歌集を読める人を増やしたことと必ずしもイコールではないのではないか、という指摘を昔見かけたことがある。一首単位なら読める、楽しめる。BL読みや百合読み、特定のキャラクターに引き寄せるなど、「場」から切り離された三十一音は誰にでも「ほとんど無限の種類の(23)」読みが可能だ。その中にはわからない、という感想も、新興俳句弾圧事件(24)のような悪意ある読みも含まれるだろう。では同じ行為を歌集や連作単位でしているかと言えば、私を含め大抵の人はそうではないと思う。歌集、あるいはその中に収録された連作を読む行為には歌一首を読むのとは別の技術が含まれてくるのではないか。

もちろん、別の技術などないまま読んでも問題はない。けれど、一読者がテキストのみから連作や歌集を読み解く方法や連作の構築方法はどれほど言語化され、共有されているのだろう。
短詩作品が「場」の影響を深く受けるものならば作品を読む際、作品の置かれた「場」の単位をどう設定し読むかは重要なものになるはずだ。寺山の歌にトレンチコートを纏い煙草をふかす男のイメージを持たせたのは歌一首の力だけでなく、各連作の構成の力でもあっただろう。そうした手法の検証(及びそれを踏まえた一首の読み解き)はbotのみでなく歌集や連作を多く読み、時に自ら詠む人々にこそアドバンテージがあるのではないかと思う。

小さな石にあちこちから光を当ててみるように。三十一文字の定型から、わたしは何を読んでいるのだろう。どこから「たましいの色」を読み取っているのだろう。
「究極は歌のことばがひとり歩きする(25)」という言葉にいくつかの実例を思い浮かべながら頷きつつ、そこに含まれる暴力について時折考える。結局のところ歌を並べるという行為はその中のいくつかの歌を際立たせる「場」の制作以外の意味はないのだろうか……そう思いながら、歌集やアンソロジーを勧めてみる。もしかしたらちょっと驚くかもしれませんよ、と内心呟きながら。


1)これまでの取組は「#リプライされたCPのイメ短歌イメ俳句をツイートするhttps://togetter.com/li/1117853)」にまとめている。
2)キャラクター同士の恋愛関係を表す同人用語。カップリングの略。
3)なおTwitterには「高緑短歌bot(@tkmd_tnkbot)」「百合短歌(@lilytanka)」など、特定のCP読みできる短歌(とbot運営者が判断したもの)を紹介するbotも存在する。また、「谷川俊太郎の詩を朗読する松野十四松bot(@tanikawa_14)」、「鶴丸国永と寺山修司bot(@turu_terayama)」など、各キャラが既存の詩歌作品を朗読するという「設定」で詩歌をtweetするbotも存在する(ただし「鶴丸~」はtweetする詩歌作品について「一部を鶴丸風に改変しているものもあります」としている)。これらはネット上のネタをキャラクターが発言している体でtweetする「コピペbot」の派生とも捉えられるが、bot名称と設定を利用しテキストの主体を入れ替える試みとも言える。
 4)以下、主に短歌についての記載となる。
 5)創作SNS「pixiv」の子会社が運営する漫画、アニメ、ゲーム、二次創作などに関するオンライン百科事典サービス。
 6)「共有結晶別冊・二次創作短歌特集 二次創作短歌非公式ガイドブック」(BL短歌合同誌実行委員会、2017年)所収「座談会 定型ワンルームへようこそ!」正井氏の発言より。
 7)既存の短詩を(当該作品の作者の性別などに拠らず)、男性同士(BL)、女性同士(百合)、漫画やアニメなど創作作品のキャラクター同士(CP)の相聞として読むこと。
 8)岡井隆「現代短歌入門」(大和書房、1974年)「第四章 場について」には以下のような記載がある。「……よく、一首の独立性という言葉が、連作を論ずる際使われますが、はなはだあやしげな揚言であって、連作というからには、何首かが互いに影響し合って「場」の力を強め、特殊な「場」の建設に役立っていなければ意味が無いので、その際、一首の独立性をうんぬんするのは愚かなことです。もしかりに、連作のなかの一首を引いてそれだけを完結した表現として読んだとします。その時にはすでに「場」がちがっている。つまり、まったく別の約束に従って読まれている。まったく別の作品になっているのです。」
 9)寺山修司「寺山修司青春歌集」角川文庫、1972年
 10)違星北斗「北斗帖」青空文庫(初出「違星北斗遺稿集」違星北斗の会、1954年) 
 11)服部真里子「行け荒野へと」本阿弥書店、2014年
 12)作者・野田サトル。2014年から週刊ヤングジャンプにて連載中。
 13)中山明「ラスト・トレイン」1996年
(http://www.ne.jp/asahi/kawasemi/home/last_train/last_train.htm) 
 14)金魚ファー「金魚ファーラウェイ」同人誌、2014年(金魚ファーは山中千瀬、笠木拓の二名によるユニットだが掲出歌は二人のどちらによるものか明記されていない)
 15)佐藤文香・編「天の川銀河発電所」書肆侃侃房、2017年
 16)作者・大川ぶくぶ。まんがライフWINにて2014年から連載中。短気で挑発的なポプ子とその親友兼ツッコミ役のピピ美のコンビを中心に展開する。2018年にアニメ化。
 17)傍点(本記事では下線)は筆者による。
 18)岩川ありさ「BL短歌のふるえ方――クィア・リーディングとしての「BL読みできる短歌」」(「共有結晶vol.2」BL短歌合同誌実行委員会、2013年)。において岩川は「BL読みできる短歌」とは男性同士のホモエロティックな関係性が描かれている短歌という意味ではなく「読みのモード」、これまで詠まれてきた短歌全てについて再解釈を行う、クィア・リーディングの一形態を指すのではないかと提起している。なお再解釈は作中主体達の性別以外の要素を変化させることでも生じると筆者は考える。
19)塚本邦雄「汨羅變」短歌研究社、1997年
20)池田澄子「空の庭」人間の科学社、1988年(なかはられいこ編「大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳③ なやみと力」ゆまに書房、2016年)
21)ジュリー・オオツカ「屋根裏の仏さま」新潮社、2016年(引用はエピグラフより。なお句中の空白は削除した)
22)作者・諫山創。2009年から別冊少年マガジンにて連載中。リヴァイ兵長は調査兵団の「人類最強の兵士」。神経質で重度の潔癖症だが、仲間思いの一面を持つ。
23)岡井隆「現代短歌入門」「第四章 場について」より。
24)栗林一石路の回想によれば当時、赤い柿の「赤」は共産党の隠語であるとされたり菊は皇室を意味するという理屈から季語「枯菊」が使用できなくなったりした。(吉野孝雄「文学報国会の時代」河出書房新社、2008年 より)
 25)「共有結晶別冊・二次創作短歌特集 二次創作短歌非公式ガイドブック」「黒瀬珂瀾インタビュー 魔宮から広がる無限のタグ」黒瀬氏の発言より。

        

※初出 BL短歌合同誌共有結晶 2018.11
※本稿及び二次創作短歌ガイドブックについては有斐閣「BLの教科書」第7章「BL読み」という方法――BL短歌,クィア・リーディング,二次創作短歌(岩川ありさ 氏)にて引用、言及頂いた。