Fair is foul, and foul is fair――佐々木紺の透視する目(第十三回北斗賞 佐々木紺『おぼえて、わすれる』を読む)

2024年3月15日金曜日

appreciation-etc

Fair is foul, and foul is fair:

Hover through the fog and filthy air.

きれいは汚い、汚いはきれい。

飛んで行こう、よどんだ空気と霧の中。


“Macbeth” Act1,Scene1 A desert place.

『マクベス』第一幕第一場 荒野 




第十三回北斗賞を受賞した佐々木紺氏の連作『おぼえて、わすれる』から、氏の作品に現れるものについて、少しでも読み解けたらと思う。

  


 忘れゆくはやさで淡雪が乾く


 水の春ドアノブはドアつらぬいて


 火の中の一本の針月日貝



『おぼえて、わすれる』冒頭三句である。一句目の季語である淡雪も二句目の水の春も、はっきりした色や形を持たない存在だ。その一方、二句目に現れるドアノブはそれを捉える視線の意外さ、また多くの場合ドアノブが銀色であることも相まって、視覚イメージとしても強い印象を残す。

 通常わたし達はドアノブの、ドア表面に取り付けられた部分しか認識していない。けれどこの句では本来なら見えない、ドアノブのドア板を貫く部分がいわば透視され、読者はドアノブを、一本の釘のような存在として捉え直させられる(ちなみに実際のドアノブは片方のノブ裏についた突起を、もう片方のノブ裏についた金具に差し込む形になっていることが多いようだ)。その視線は三句目で、火の中に一本の針を見せもする。この針とは現実のろうそくの火やガスの火の芯の部分としても、幻としても解釈可能と思うが、いずれにせよ読者には見えていなかった、内部を貫く鋭い存在に気付かせるという点で、二句目と共通した構造を持つと言える。

 透視するとは、見えないものを見るということだ。なぜ見えないかといえばそれが何か(それはドア板かもしれないし、自分や社会の偏見かもしれないし、言語かもしれない)に阻まれ、閉じ込められているからだ。内部を貫く鋭い存在とは、透視する視線そのものでもある。

 だが冒頭三句からも伺えるように、『おぼえて、わすれる』に堅牢な物体は殆ど登場しない。登場するのはオーガンジーのような張りを持ちつつも向こう側を透かし、時に裂けてしまう儚いもの達であり、その内側に閉じ込められたものは柔らかな影を落とされ、佇む。

 淡く儚い檻と、内部を貫く鋭いものと。これだけが『おぼえて、わすれる』の全てではないだろうが、とはいえこの二つのモチーフはそれだけでも二物衝撃を起こしえる、作品の重要な要素と言えるだろう。



 鶴帰る世界より夢剥がしつつ 


 銀に泡纏ひ青梅沈めらる


 背を裂いて夏に生まれるワンピース  



薄暗がりやほのかな光の似合うこれらの句を読みながら、だがそもそも、閉じ込められているのはどちらなのだろう、と思う。

一句目、世界を閉じ込めていた夢を鶴が鋭い嘴で剥がしながら北へ帰っていく。剝がされた夢はどこへゆくのだろう。本当は最初から、夢は世界に閉じ込められていたのではないか。あるいは夢こそが世界であり、世界とは夢だったのではないか。二句目の青梅は水泡を纏っているが、そこに泡が存在するのは梅と泡とが共に、液体を入れた器に閉じ込められているからだ。三句目のワンピースは蛹のように背中から自らを裂いていく。それによって生まれるのはワンピースを着ることで閉じ込められていた誰かの身体……ではなく、ワンピース自身だ。

『おぼえて、わすれる』において何かを閉じ込めていたものは頻繁に裂かれ、弾け、閉じ込められる側と抵抗なく入れ替わる。



 てのひらとはくれん換へてもらひけり 


 街欠けてゆき紫陽花に置き換はる


 晩白柚撫ですり替へてみたき首 



 身体や街の一部は、花や果実とあっけなく入れ替わる。こうした変化、入れ替わりを人によっては倒錯、官能と表現するかもしれない。だがてのひらとはくれん、街と紫陽花、首と首、あるいは首と晩白柚とを等価に見る視線は、しんと冷たい。

 閉じ込める側と閉じ込められる側が軽やかに入れ替わり続けても、内と外との区分は依然存在する。世界を閉じ込めていたはずの夢が本当は世界に閉じ込められていたかもしれないように、入れ替わり続ける世界の外側には更に強固な、内と外とを分ける構造がありはしないか。



 雨はすすきへ一線を引くときの意思 


 白菊の家族であれば隠さねば  

    

 落飾の夢より醒めて日雷  

      

 逃げられぬ夜をみどりのありあまる      



閉じ込める側が常に閉じ込める側であり、閉じ込められた側に抵抗が許されない状況を抑圧と呼ぶ。『おぼえて、わすれる』中盤の緊張感溢れるこれらの句を見るとき、佐々木氏が凝視する抑圧(それは時に家制度に結び付けられる)とは蔵や牢獄のようなものではなく、どこまでも広がる花畑や万緑のようなものではないかと思えてくる。解放への強い希求は野を駆け、空を走り、地平線の先へ向かっていく。


冒頭に引いたマクベスの荒野の魔女達の科白は「きれいは汚い、汚いはきれい」という訳が人口に膾炙している。だがFairもFoulも単に(見た目が)きれい/汚いの意のみに留まらない、広い概念を指す言葉であり、魔女達の科白は例えば「公正は不公正、不公正は公正」と訳すことも可能だ。

この公正は本当に公正だろうか、実は不公正ではないか。この不公正は本当に不公正なのだろうか……。ほの光りする美しいもの達の関係をくるくると入れ替え、その感触や落ちる影を確かめ時に楽しみながら、『おぼえて、わすれる』において佐々木紺は、その更に向こう側を凝視しようとしているように思う。

荒野の魔女の呪文同様、佐々木氏の『おぼえて、わすれる』は、氏が濃い霧や濁った大気の中を飛んでいくための強力な呪文になるだろう。




(初出:俳句誌年刊「豆の木」No.27 2023.6.10)


※冒頭の引用、日本語訳は松岡和子による。