「しふくの時」(作者:小松岬)は第65回短歌研究新人賞候補作品である。30首からなる短歌連作であるが、短歌研究2022年7月号には一部の歌のみ抜粋して掲載(抄録)された。同賞の選考委員は加藤次郎、斉藤斎藤、栗木京子、米川千嘉子の4名、またこの時の大賞はショージサキによる連作「Lighthouse」である。
作品に関する、短歌研究2022年7月号誌上で公開された選考会議での言及やその後の論評などについては2022年9月に公表された濱松哲朗による月のコラム(時評)「奪うな」が、2022年10月現在、オンラインで読めるものでは最も詳しいと思われる。
短歌研究2022年7月号刊行後、「しふくの時」は作者により、連作30首すべてを掲載した私家版歌集が頒布された(2022年10月現在は第三版が書店にて委託販売中)。
歌集は1頁に1首掲載、連作の冒頭1首目は歌集3ページに掲載されている。従って以下、歌の引用の際には()書きで連作の〇首目かを記載していくが、歌集を入手された方は歌集のページ数(ノンブル)を参考に適宜歌の前後など参照いただければと思う。
*
一行の誰もさわれぬ詩になって透明なまま駅に立ちたい (1)
春を呼ぶ風 いくつもの接触を伝えてもなお無害なヴェール (2)
幸せそうに見えないように小田急に乗せられている数多のいのち (3)
「しふくの時」冒頭3首である。誰もさわれぬ透明な存在になりたいという1首目で詠まれた願いは2首目の、無害ではあるが“いくつもの接触を伝え”るヴェールによってゆるやかに侵食され、3首目ではっきり否定される。他者から触れられ、見られ、時に暴力を振るわれる可能性すらもつ、実在する数多のいのちは “幸せそうに見えないように”“乗せられている”という、抑圧と受動の下にある。それはこの連作の歌の主体にとっても他人事ではないらしい。この抑圧と受動のテーマは連作冒頭から三分の一に渡って示される。
「しふくの時」では電車の中、駅ビル、改札、コンコース、恐らくは駅舎近くに置かれているのだろうストリートピアノなど、駅周辺の景色がとりどりに描かれていくが、歌の作中主体の視線は駅を通る通行人や電車の乗客として「のみ」存在し続けるものには決してなっていない。
もうずっとひれ伏したまま膝がしら触れれば砂利の跡の無数の (6)
わきまえているほど生きやすいらしく陽の差すところの蟻の行進 (7)
長い間砂利の上にひれ伏している人の膝は自重で砂利に押し付けられる。尖った砂利があれば血が出ることもあるだろうし、痛みもあるだろう。同じ姿勢をずっととっていなければならない苦痛もある。前後の歌を読むとこの歌は現実の体験ではなく、主体が抑圧された状況下に置かれていることの比喩と思われる(5,8首参照)。これは7首目も同様だ。
しかしこれらの歌の中には肉体的な痛みも、また抑圧に対する怒りや悔しさ、悲しみも描かれていない。ひれ伏しているしかない自身の状況を他人のように突き放した場所から眺め、膝についた砂利の跡を確かめる……そんな視点からこの歌は詠まれているように思う。
足音も悲鳴も聞き逃さないようイヤフォン外す真昼の電車 (10)
肉体の輪郭をそっとかたくして肌以上鎧未満のなにか (11)
眠らないようにするのはたやすいが憎悪にそなえるすべを知らない (13)
ランドセルの少女が無事に改札を抜けるまで見てスタバに入る (18)
連作は中盤、10~20首目を中心に電車内での出来事を描いていくが、三人称的な突き放した視点から詠まれているのは上に上げた歌においても同様である。歌の主体がイヤフォンを外して足音や悲鳴が聞き取れるようにしなければならない状況、肉体の輪郭をかたくせざるを得ない状況にあるのはなぜか。それは他者から触れられ、見られ、……はっきり言えば暴力を振るわれる可能性をもつ身体(なので自衛するのが当然である、と、世の中一般から思わされている属性)を持っているがゆえのものなのだろう。
しかしこれらの歌の中ではそうした状況やそれを発生させ許してしまうような社会構造があることの指摘、またそうした構造に対する主体の怒りや悔しさ、悲しみといった感情は描かれない。同様に、主体の身体を脅かすかもしれない見知らぬ誰かへの恐怖や不安も直接的には描かれず、ただ主体の行動(イヤフォンを外す、肉体の輪郭をかたくする、眠らないようにする、少女を見送る)だけが記述される。
ここで描かれた主体の行動はいずれも、周囲を警戒するための行動だ。10首目で端的にあらわされているように、周囲を警戒するとは自身にとって心地よい感覚に没入しない、できないということでもあるのだろう。だからこそ、そこには主体自身を観察し続ける視点が現れる。
木蓮のつぼみふくらむ 車窓から見える看板をすべて読む子ら (12)
人間になって間もない生きものよ見ておくれ世界のいいところ (15)
沿線のオリーブの家過ぎたころ車内の誰かのかわいいくしゃみ (16)
一方、これら電車内の出来事を詠んだ歌は先に上げた歌(10,11,13首目)とほとんど交互に登場するが、これらの歌に主体自身を突き放して観察するような視線は存在しない。作中主体は電車の乗客として周囲を見回し、出会った光景にポジティブな感情を抱き、それが歌として表現される。周囲の景色の描写(写実)を通してそれを見ている自分の感情を同時に描くという構造を持つこれらの短歌は、いわゆる「『短歌』らしい短歌」だと言えるだろう。怒りや悔しさ、悲しみといったネガティブな感情はその一歩手前の身体反応の観察までしか描かれない一方、これらの歌の中ではあたたかいポジティブな感情が抑圧されずそのまま示されるので、連作は一見、春の穏やかな雰囲気を全体として纏って見える。どちらの歌がどの程度引かれるか、その割合によって、この連作のイメージは恐らくかなり変わってくるだろう。
(ちなみに筆者は選考座談会および評論を読んだ後に私家版歌集を手に取った。また、私家版歌集を読む前にはtwitterでの引用なども多少目にしていたが、それらの引用ではフェミニズムのキーワードが含まれた短歌や突き放した視点の歌の方が多かったように思う。そのため、この連作はフェミニズムのイシューを強く打ち出した連作なのだろう……という予測を持っていた。)
だが連作ではこれらの歌と交互に、周囲を警戒する三人称的な歌が置かれているのは先に述べたとおりだ。
春の穏やかな日常が描写されているからといって主体が抑圧されていないわけでも不安や恐怖を感じていないわけでもない、のは言うまでもない。むしろそれらが同時に存在するのが日常である(それは、だからこそ苦しいという可能性の暗示でもある)ことの指摘こそが、この連作中盤の主眼だろう。
*
子を産むか金稼ぐかの街にいてわたし砂漠でも水を探すね (24)
いつの日か祝えるだろう生殖がほんとにわたしのものになったと (25)
くらがりを避けずにひとり歩けたらそれがわたしの最初の至福 (29)
連作は23首目以降から電車や駅の風景を離れ、ガラスの天井(26)、生殖(25)といったフェミニズムのテーマへも言及していく。砂漠で探す水、いつの日かあるお祝い、暴力を振るわれる可能性からの解放。今存在する差別の構造、平等の欠如は、それが是正される日への祈りや願望として描かれる。これらの祈りは15首目の、生まれたばかりの赤ん坊への祈りともつながっているだろう。
その一方で、これらの歌には10~20首目のような『短歌らしい短歌』がセットになって置かれていない。実際の場面による裏付けが少ないこと、またテーマがかなり多岐に渡ることから、個人的には23首目以降について、フェミニズムのテーマを「網羅的に押さえた」ような印象も受けた。
構造などに対する主体の怒りや悔しさ、悲しみといったネガティブな感情の存在がはっきり言及されるのは実に連作のいちばん最後、30首目でのことである。
なつかしい兎のような熱を抱き これは怒り あなたにも抱かせる (30)
この「あなた」とは誰だろう。
一般的に短歌の中で二人称は、歌の主体にとって感情的に近しい相手、家族や友人、恋人などであろうと解釈されることが多い。しかしこの連作中に「あなた」と歌の主体から呼ばれるべき相手は登場しただろうか。
恋人や家族は登場しない(というより、この連作から作中主体の社会的属性等はあまり読み取れない。5,24,26首目から恐らく女性ジェンダーとして生活しているのだろうと言えるくらいか)。連作中で描写されていた電車の中の子ども(12)や子どもを抱いていたサラリーマン(14)、ランドセルを背負っていた少女(18)、それともピアノを弾いていた青年(20)だろうか。いずれも主体とは距離があり、その中のいずれかが抜きんでて主体と近しい関係にあるとは思えない。この連作は小田急で起きた実際の事件(2021年8月の無差別殺傷事件、フェミサイド)を念頭に置いて制作されたのではないかということは賞の選考座談会でも指摘されているが、実際の事件の関係者を「あなた」と呼ぶには、この連作において事件の暗示はあまりに微かであるように思う。では「あなた」はどこにもいない存在、主体に対する世界全体のような、なにか抽象的な存在なのだろうか。
いや、もう一人いる。
それはこの連作が描く風景を主体と共にずっと眺めていた「あなた」、つまり(恐らくはこの文章を読んでいる「あなた」とほぼイコールでもあろう)この連作の読者だ。
*
「一行の誰もさわれぬ詩に」なることを願いながら始まるこの連作において、触覚に関する描写は6首目と27首目の2首のみである。中盤の、主体が電車の乗客として出会った光景も視覚・聴覚を中心に描かれており、主体の身体は透明である。主体の体に触れるのは主体自身のみであり(27)、他者による侵襲や主体からの侵襲はない。主体は電車の中で自身や自身のような弱者に暴力的に触れてくるかもしれない誰かを警戒するが、その「見知らぬ誰か」の姿が具体的に描かれることはないし(もちろん誰が「そう」なるのかはそのときまで誰にもわからないのだから、特定の性別や背格好の描写を避けることは倫理的な対応ではある)、他の乗客が主体の周囲にどれだけいてその存在感に主体がどれだけ圧倒されているのかも、この連作では読み取れない。歌に描かれるモチーフは極めて厳選されており、ノイズは排除されている。
例えば車両内のすべての座席が埋まりすべての吊り革が誰かの手に握られているような状況と、座席にちらほら空きがあるような状況とでは、「見知らぬ誰か」の存在感や、それに対する脅威の感覚は、多少なりとも異なってくるはずだ。だがこの連作を読んで、主体が乗っている列車の車両や駅コンコースにどの程度人がいるのか、読みながら浮かんだイメージは読者によってかなり異なるのではないか。
Twitterではこの連作に共感する読者を多く見かけた印象があるが、これは連作を読むことで読者が作中主体の電車内での体験、特に見知らぬ他者への警戒や脅威に伴う身体感覚をまざまざと追体験し、感情移入や共感をしたというよりは、10,11,13首目などの歌を(12,15,16首目などの歌と合わせて)読むことによって、それまで自分にとって当たり前すぎて意識したこともなかった日々の警戒動作が言語化されていることに驚いたことによるものではないか。人によってはそれらの動作を自分もいつの間にか身に付けていたこと、いつか体験した自分の不安や脅威について、まざまざと想起したりもしたかもしれない。歌は描写というより、むしろ一部の読者にとっての記憶のトリガーとして機能したのではないか。
もちろん、いかなる読書体験も読者の記憶や知識、偏見に依存して読み解かれるものである。まして31文字の定型詩である短歌においてその傾向が強いことは、例えば相聞歌がほとんど常に男女のそれと解釈されがちな点などからも指摘されている。
しかし、「他者から暴力を振るわれる可能性をもつ身体」を持つことをテーマにしながらも、主体の身体に関する情報含むプロフィールについてほとんど透明化され、かつ、暴力を振るう側について具体的イメージを描くことも回避しているこの連作は、読み解くにあたって「暴力を振るわれる可能性をもつ身体」について、読者の記憶や知識に強く依存するつくりになっている。
したがって例えば、フェミニズム含む何らかの主義主張を表現する作品は、どんな属性の読者にも容易に読み取れる具体的で切実な怒りや悲しみの状況描写に依拠するものであるはずだ、あるべきだという強い観念がある読者にとっては、この連作は「物足りない」「わかりにくい」「そもそも何について書いているのかわからない」ものになる可能性が高いだろう。
視覚・聴覚が中心で触覚や嗅覚、暑さ寒さなどの体感描写が少ない突き放した視点は三人称、カメラ・アイに近い。駅を通る通行人や電車の乗客としての主体とそれを俯瞰して観察する視点の両方から構成されたこの連作は主体の感覚や感情に没入しきることが難しく、読者は歌の主体を主体という他者として、観察するように読み進めていくことになる。
そうして読み進めていった先に初めて現れた他者たる「あなた」は、いわゆる相聞歌などにおける「あなた」ではなく、小説の地の文でその小説の読者に向けて呼びかけるための「あなた」のような存在に近い(実際、相聞やある種の呪文としてこの歌を詠むには、この30首目には陶酔感が足りないようにも思う)。
小説の地の文において「あなた」と読者に向けて呼びかけるような作品は、メタフィクションに分類される(正確にはメタフィクションには他にも様々な手法があるが、ここでは本旨でないので割愛する)。本来、小説は小説の中で世界が閉じており、読者はその外側にいる。誰もが当然視しているこの関係は、たとえば「あなた」と読者に対し呼び掛けることで崩壊し、読者の読者としての安全地帯は失われる。そこからそもそもフィクションとは何か、現実とは何かという、フィクションについての問い(=メタフィクション)が生まれてくる。
なつかしい兎のような熱を抱き これは怒り あなたにも抱かせる (30)
改めて30首目に戻る。結句「あなたにも抱かせる」とは、怒りを抱くことを主体が「あなた」に強制するということだ。「あなた」は怒りを抱きたい、自分が抱くべきだなどとは思ってもいないかもしれない。そもそも感情を他者に強制するなど、誰にとってもほとんど不可能なことであるはずだ。それでも歌の主体はそうする、そうできると断言する。怒りを抱かせる――何に対しての? 29首までで描写されてきた、しかし形をとってはいなかった、構造への怒りだ。
”あなたは小松岬という人物による「しふくの時」という短歌連作がどのようなものか、値踏みしながらここまで読んできたかもしれない。だがここにわたしが書いたのはわたしひとりの怒りについてではない。
わたしは怒っている。この社会の構造に怒っている。そしてそれは今この、同じ時代、同じ社会に生きる「あなた」にとって、無縁のものであるはずはない。あなたが今この社会でどのような属性に置かれた人であったとしても、あなたはこの怒りを知らなければいけない、無視してはならない。あるいはあなたにも、同じ怒りがあるのではないか。
なぜならわたしがここに書いたのはこれを読む「あなた」が今生きている「現実」についてなのだから。あなたは読者として、安全な場所にい続けられるはずはないのだ。”
……大げさな、そして少々露悪的な書き方をすれば、30首目の「あなた」への呼びかけは、賞の審査員含む「しふくの時」読者全てに対しての、こんなメッセージなのではないだろうか。
冒頭で述べた通り、連作「しふくの時」は短歌研究新人賞への応募作として提出されたものである。今でこそ私家版歌集として多くの人が読むことができるが、その最初の想定読者は(作者がどこまで意識したかはわからないものの)賞の審査員であったろうことを踏まえると、そのように思われてならない。
とはいえ、30首目の「あなた」への呼びかけは同時に、主体同様に「暴力を振るわれる可能性をもつ身体」をもつ人々へのこんなメッセージでもあるだろう。
“大丈夫、あなたはこれに怒っていいのだ。”
(歌集をお持ちの方はここで歌集「あとがき」を参照いただければと思う。「あとがき」は一行、最後の歌と見開きになる形で配置されている。その内容は30首目の後者としての意味合いを強めるよう、30首目と響き合うように配置されているように思われる)。
つまりこの連作最後の一首は、作者から読者に対する(同時に短歌の連作形式やこの社会に対する)渾身の一撃、呼びかけなのだ。冒頭にも書いた通り「しふくの時」は現在、完全版が書店委託により頒布され、第三版が出ている。歌の主体から「あなた」への声は、ある意味では今も広く届き続けていると言えるだろう。
※このレジュメはみやさとさん主催の「しふくの時」読書会用のレジュメとして作成したものに若干加筆修正したものです。みやさとさん、参加者のみなさま、ありがとうございました。
※読書会参加者の感想、レジュメ等