まぎれて生きる・ちょっと遠くからの距離――松本てふこ『汗の果実』について(読書会発言メモ)

2021年1月24日日曜日

appreciation-etc

1.きみともあなたとも呼ばないひとへのエール


 花は葉にまたねとうまく笑はねば (p16)

 問ひかける言葉ばかりの賀状書く (p36)

 飛花落花名を呼ぶといふ激励も (p76)

 雪道を撮れば逢ひたくなつてをり (p119)

 励まされつつマフラーを巻かれつつ (p145)


上記はいずれも句集を読んで個人的に印象的だった句だが、これらからキーワードとして浮かんできたのが題として書いた「きみともあなたとも呼ばないひとへのエール」であった。

いずれの句も主体と誰かとの関係が詠まれているが、ではその誰かとはどのような人物なのか、主体とどういう関係なのかはわからない。二者関係かもしれないが、花は葉に~など、そうでない(一対多数)とも読める句もある。二者関係であっても友愛とも恋愛とも読める。全体として、主体から相手への切実な感情はあるが、とても親密な関係というよりは、主体と相手とはちょっと距離がある関係だなという印象がある。


「花は葉にまたねとうまく笑はねば」

葉桜の季節、目の前の相手との別れの時が近づいている。不安もさびしさもあるが、それは表に出さず自分は「うまく笑はねば」ならない。言い換えればそうした自分の感情を目の前の相手にぶちまけることはできない、してはいけないんだ、という距離感がある。


「問ひかける言葉ばかりの賀状書く」

手紙を書いているので相手とは物理的にも時間的にも距離がある。元気にしてますか、仕事はどうですか。あの頃好きだったあれ、今も好きですか……主体と相手は、もう長いこと会っておらず、年賀状以外のやり取りはしていないのだろう。それでも気になるから「問ひかける」。


「飛花落花名を呼ぶといふ激励も」

自分の近くにいる相手が大変な状況にあることを知っている。けれど直接励ますことはできない。それは遠慮や照れかもしれないし、相手からこちらに踏み込んでくれるな(=距離を取れ)という態度をとられているのかもしれない。だから名前だけを呼ぶ。呼びかけたところでしかし、その先に続く言葉は存在しない。


いずれも主体と距離がある関係ではあるが、例えばアイドルとそのファンのような、極端な段差のある関係ではない。たとえばクラスメート、同僚、先輩、後輩、幼なじみなど、同じチームの仲間くらいの対等さをどの句からも感じる。が、そのくらいの関係でしかないからこそ、これ以上は踏み込めないという距離への自覚、躊躇いがある。それ故か、ここには例えば独占欲とか嫉妬といった、相手に何かを要求するようなどろどろした感情も現れない。そもそも主体から相手への感情と同等のものが相手からもまた帰ってきているのか、恐らく帰ってはこないのではないかという気すらする。

(なお句集全体として、対人に限らずネガティブな感情自体があまり多くないと思われる。また、登場しても栗や湯たんぽといった比較的かわいらしいものとくっついており、かつすぐに解けていってしまう。「くやしさの極みの栗を剥いてをり (p31)」、「湯たんぽにけふの怒りを注ぎけり (p118)」 など、それは主体の中に沈んではいかない)

相手への感情はあるが相手から自分と同等の感情を帰してほしい、相手の幸せには自分が絶対関わっていないといけない、関わっているはずだ、といった考えはいずれの句の主体も薄い。結果として、相手に幸せになってほしいという感情(=エール)だけが残る。

もちろん、この句集には「きみ/あなた」、あるいは「夫」という、もう少し親密な関係を直接示唆するような言葉なり句も出てくる。したがって上にあげた句も、連作の流れとしてこれは「夫」(となった、かつて恋人であった人など)との関係を読んだものとして読むことも可能だろう。とはいえ、そうした親密な関係を示唆するような言葉を使った句においても、上にあげた対等さや距離感は共通しているように思う。


「冬暁の小高き山として夫」 (p37)

この句の夫は小高き山である。見上げる程度に距離はあるが、富士山やエベレストなど、到底届かない高みという距離でもない。澄んだ冬の空気の中、山の姿はくっきりと見えている。



2.〇〇のなかのわたし

チームの仲間くらいの対等さ、という意味では『汗の果実』には所属する自分、何かの一部の自分といったモチーフも多い。


 会社やめたしやめたしやめたし落花飛花 (p10)

 冬滝へ人がぎゆうぎゆうづめのバス (p39)

 シクラメン息子の嫁と名乗りけり (p40)

 さばさばと父の老いゆく大暑かな (p50)

 東京の蝉時雨とはうすつぺら (p128)

 よそ者として一心に踊りたる (p132)

   人ごみに流されながら初笑 (p144)

 人事部の谷さんと見る桜かな (p155)


句集全体の構成として、まず一章・皮が学生から労働者になり結婚するというかなり「わかりやすい」ストーリーになっていること、四章・蔕に熊手市がモチーフとして出てくる。このため、皮では組織の中の自分、蔕では人ごみの中の自分がよく詠まれている。また第二章・種では親族など、系譜の中に位置づけられる自分というものがうっすらとではあるがモチーフになっているように思った。三章・汁だけはそうした要素が若干薄い感じがあった。


「シクラメン息子の嫁と名乗りけり」

年末年始の親戚集まりで義実家の初対面の親族に挨拶しつつ、なるほど自分はこの場では「息子の嫁」というものになるのか、と発見している。


「人事部の谷さんと見る桜かな」

異動または転職シーズンの景色、翻って組織に属して働いている自分というものを否が応にも意識せざるを得ない場面。


こうしたモチーフを取り扱う句においては主体の帰属意識、あるいはそこから反転した疎外感が詠まれることも多いと思う。が、例えば「よそ者として一心に踊りたる」に、よそ者としての疎外感を感じるかというと、あまりそうした印象は受けない。「東京の蝉時雨とはうすつぺら」も、主体は東京以外の蝉時雨と比較しているからこそうすっぺらと感慨しているのだろうが、智恵子抄のような東京の否定やそれと併せての故郷への希求はないように思う。よそものである、うすっぺらだ、そう思いつつ、それらを主体は受け入れられているのではないか。

1.で論じた「きみ/あなたとわたし」ではない関係性とを併せて考えると、『汗の果実』においてはわたしVS世界、でもなく、きみ/あなたとわたしVS世界、でもない、会社や学校や……つまりは都市の風景に紛れて生きる在り方が詠まれているように思う。その意味ではこの句集においてミクロの視点からの句は少ない。



3.身体との「距離」

2で挙げた、「会社やめたしやめたしやめたし落花飛花」や「よそ者として一心に踊りたる」などの句は何かに所属し、紛れる存在としての人物と同時に、そうしたある状況に置かれた身体という物質を、その人自身というよりはその人の持ち物として少し離れたところから見ている視線があるように思う。


   おつぱいを三百並べ卒業式 (p8)

 銀行のソファやはらか爽波の忌 (p30)

 ぐんぐんと風邪にかたむくからだかな (p40)

   水温むラッコにとほき余生かな (p77)

 さくらさくら山羊の尻尾の短くて (p90)

 柚子湯出てひとりひとりのからだかな (p112)

 着ぶくれて筒のやうなるお人かな (p141)


「おつぱいを三百並べ卒業式」

学校という組織・集団から旅立っていく身体、乳房という物体を持った身体が300ある、ということ。


「ぐんぐんと風邪にかたむくからだかな」

主体あるいは誰かが風邪をひきかけている(恐らく熱がだんだん上がっているのではないだろうか)のを、引きかけているなー、と冷静に見ている。


「柚子湯出てひとりひとりのからだかな」

同じ柚子湯に浸かっていても、ひとりひとりの身体がそれぞれに存在していること。1.で論じた、自他の距離の自覚ということを身体の描写から詠んでいるように思う。


身体というものがその人そのもの、というよりは、それはそれとして身体はこうなってるのか、と観察している印象がある。しかしその身体は冷たい無機物ではなく、ほんのりとした温度を持つ。1.で人間関係におけるどろどろした感情がないと書いたが、『汗の果実』においては身体もまた、どろどろはしていない。骨や関節、内臓はあまり登場せず、毛や皮膚が中心の、ぬいぐるみや着ぐるみっぽい身体が描かれる。身体(性器等を含む)に対する嫌悪感、屈折は薄く、性愛等を描いた句もある種、子どものような視線を感じる。


「銀行のソファやはらか爽波の忌」

ア行の連なりの効果による柔らかさがある。ソファも柔らかだがソファに座っている人間もソファ同様に柔らかくなっている。


「着ぶくれて筒のやうなるお人かな」

こちらも服だけでなく、着こんでるからだ自体がもこもこと暖かい。


こうした「どろどろしていない」性質が、別角度から現れている句もある。


「くちづけのあと春泥につきとばす」(p88)

つきとばされ、春泥に落ちて濡れるのはあくまで相手のみであり、主体ではない。


「いまひとつ乾きの足りぬ落葉かな」(p117)

句集ではこの句の前に姫初めなど、性愛を扱う句が3句連続して置かれている。乾きが足りないということはつまり濡れているということであるが、表記としては(姫初めの後であっても)乾きの方を先に出す、つまり乾いているのが本来だという感覚があるように思う。


……これらの歌において水は遠く不穏な存在であり、作中主体の体を濡らすような描写は殆どない。「水」は他者であり、作中主体は「水」のイメージと同化しない。「湿り気が少ない」という印象はここから来るのではないかと思われる。”

(拙論:遠い水、神義論と対峙する「私」―服部真里子『行け広野へと』について より抜粋)


服部真里子第一歌集『行け荒野へと』批評会において、服部氏の歌集は批評会パネリストの水原紫苑氏に「女性としての不如意を感じない」「湿り気がない」とコメントされていた。一方で『行け荒野へと』収録作品を見ると、水に関するモチーフがそれなりにある。にも関わらずなぜ「湿り気がない」とコメントされたのか、当時考察した結論が上記抜粋部分である。一般的に水や湿り気のあるものは身体性と絡みやすいモチーフであり、それを自分に近しいものとするか遠いものにするか、その距離感には創作者の個性が強く出るのではないかと思う。



4.まとめ・少し遠くからの距離

まとめると、『汗の果実』は「少し遠くからの距離」が常にある句集といえる。他者との関係について常に距離が0にはならないことを自覚、あるいはそうした関係を好んでいること。少し離れた視点から身体を見ていること。そして何かの中に紛れて生きている自分自身を、少し離れたところから見下ろしていること。

いずれにせよ少し遠くからの視点が存在するが、言い方を変えれば、自他への没入や陶酔がないということでもあると思う。おそらくは結果論になるが、こうした距離感のある視線が主体としての自分や身体のようなものについてのわかりやすいラベルを回避させている部分もあるのではないか。


今回、『汗の果実』について人間関係の話から論を展開したが、それがこの句集のメインテーマというわけではないと思う。実際、『汗の果実』の帯の十句選において、1.に挙げたような句はほぼ登場しない。おそらく帯の十句選と1.に挙げた6句を並べると印象はかなり違うだろう。であるならば、こうした距離のある人間関係等を詠む作者が人間を介さず物をどう読んでいるか、ということを合わせて論じた方が、この作者の特性は明確になるのではないか、と個人的には思う。

つまり本丸は人でも身体でもない物はどう詠まれているのか……であるが、それはより俳句の技術論に係る話にもなると思われることから、他の発表ゲストや参加者のご意見をお伺いしたい。



5.私見・句集の構成、各章の構成


1章 皮  

恐らく俳句になじみがない人でも「読みやすい」とされるであろう、ストーリーやイメージが一番統一された章。冒頭10句まで花(桜)、あるいはその縁語になるような(例えば卒業式など)季語の俳句が続く中、二者関係、および労働者になり結婚する、つまり組織の中の自分というテーマが提示される。 


2章 種  

全体としては帰省旅行、系譜の中の自分への意識があり、その中に棋士の系譜や死者の話題が現れる。「さばさばと父の老いゆく大暑かな」(p50)、「万緑に死して棋譜のみ遺しけり」(p52) など。帰省については1章で「シクラメン息子の嫁と名乗りけり」があり、薄く繋がっている。

その一方で1章のわかりやすさに対し、こちらは言葉に負荷をかけた句が多く登場する印象。具体的には「背高泡立草自転車は立ち漕ぎで」(p64)「アマデウス忌の落ちさうなシャンデリア」 (p66)など。


3章 汁  

2章の帰省に対し、こちらは都市に生活する二人の関係が詠まれる。生や死、身体、性などのモチーフも登場するが、ここでいきなりそうしたモチーフが出てきたというよりは、そうしたモチーフへのスタンスを1章の卒業式やだんじりの句、2章の棋士の系譜などで小出しにしており、その伏線回収のような印象を受けた。つまり、性愛の句にぎょっとする感じはあまりしなかった。


4章 蔕(へた)  

熊手市の人ごみや人事の話題が登場する。1章の人ごみの中の私、組織の中の私というものへテーマが回帰していく。「人ごみに流されながら初笑」 (p144)、「人事部の谷さんと見る桜かな」 (p155)など。もう学生ではないけれど春はまた来るのだという予感で終わる。

一方で「春の野にただ突っ立ってをりにけり」(p152) 、「たんぽぽのどこか壊れてゐる黄色」(p156) など、今までと少々トーンの違う印象の句が出てきたように思った。