わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 (マタイ福音書10章34節)
○経緯
2015年9月20日に開催された歌集『行け広野へと』(服部真里子)批評会では後半の会場発言の時間、この歌集について筆者もコメントさせて頂いた。
が、その場ではコンパクトに纏めきれておらずエビデンスも不足していた。また、当日の発言を聞いてこの歌集について改めて考えたこともあることから、この歌集について自分がどのようなことを考えたのか、文章にまとめてみたい。(初出・)
○サマリー
『行け広野へと』批評会でパネリストの水原紫苑氏はこの歌集を「女であることの不如意がない」「湿り気がない」と評した。この「不如意の無さ」「湿り気の無さ」は、この歌集の世界で水のモチーフが遠く不穏な存在として描かれていること、また「神と神の前のたった一人の私」というキリスト教(一神教)的な関係性を基盤にしていることによるのではないか。
○本論
1)水原紫苑氏の指摘について
歌集『行け広野へと』批評会で水原紫苑氏はこの歌集を「女であることの不如意がない」「湿り気がない」と評した。私自身、この歌集を読んだ時、最初に思ったのはこの歌集は他の歌集と違う「不思議な中性さ」を帯びているのではないかということであり、氏の指摘には深く首肯させられた。
若手歌人の歌における作中主体が従来より中性的な傾向にあるということはしばしば指摘されている。水原氏の「女であることの不如意がない」という指摘が、単にこの歌集に収録された歌の作中主体が中性的な傾向にあるという趣旨であったならば、批評会で敢えて指摘する程の内容ではなかったはずである(そして私も、「不思議な中性さ」などは感じなかったはずだ)。すなわち、水原氏がこの歌集を「女であることの不如意がない」と評したのは、この歌集の歌の作中主体が中性的であること以外の要因によるものがあるのではないか。
三月の真っただ中を落ちてゆく雲雀、あるいは光の溺死(7)
※以下、カッコ内は全て歌集の掲載ページを示す。またルビについては【】で記載する。
歌集巻頭に挙げられた歌である。この歌集は光に溢れた歌集だと批評会でも指摘されていたが、巻頭歌もこの例に漏れない。「落ちてゆく」つまり重力という直線が「光」、光線の直線に重なり、小さな雲雀には到底抗えない、圧倒的な力のイメージを提示する。また結句の「光の溺死」は雲雀の死を連想させるが、「溺死」の語を使うことで実際には存在しない水のイメージが読み手の中に僅かに残る。
「水」と「光」。
二つのモチーフの提示のされ方は「三月の~」の歌だけでなく、歌集全体に共通しているように思われる。そしてこれは水原氏が『行け広野へと』を「女であることの不如意がない」と評した理由ともかかわってくるのではないか。
以下、それぞれに詳細を述べる。
2)水のモチーフについて
行くあてはないよ あなたの手を取って夜更けの浄水場を思へり(52)
どの町にも海抜がありわたくしが選ばずに来たすべてのものよ(59)
運河を知っていますかわたくしがあなたに触れて動き出す水(78)
湖を夢に訪れああこれはあなたのために鎖【さ】される扉(93)
海を見よ その平らかさたよりなさ 僕はかたちを持ってしまった(96)
母親に「きみ」と呼び掛けている夢 海岸線はいつでも遠い(102)
感情を問えばわずかにうつむいてこの湖の深さなど言う(130)
水のモチーフの出てくる歌を幾つか挙げてみた。
『行け広野へと』において、水のモチーフが含まれる歌は決して少なくない。水、海、湖、川などの語が含まれる歌は289首中68首にのぼる。(大森静佳の『手のひらを燃やす』において同様の作業を行った場合、これらの語が含まれる歌は274首中50首となった。)*1水原紫苑氏のこの歌集は「湿り気がない」という指摘は、より正確には「(水のモチーフの登場頻度自体は決して少なくないのに全体の印象としては)湿り気がない」ということになるだろう。
これらの歌において水は遠く不穏な存在であり、作中主体の体を濡らすような描写は殆どない。「水」は他者であり、作中主体は「水」のイメージと同化しない。「湿り気が少ない」という印象はここから来るのではないかと思われる。
遠く不穏な他者たる「水」はしかし、人体の内側にあるものとしても描かれる場合もある。
水という昏【くら】い広がり君のうちに息づく水に口づけている(152)
浜木綿と言うきみの唇【くち】うす闇に母音の動きだけ見えている(29)
一筆箋切りはなすとき秋は来る唇【くち】から茱萸【ぐみ】の実をあふれさせ(23)
一首目、水の気配を漂わせているのは他者の「君」である。相聞歌に分類されるだろうこの歌においても「水」はその不穏さを消すことはなく「きみ」の中にある「理解できない部分」を暗示する。だがそれはあくまで「君」の一部分であり、「水」は「君」そのものではない(作中主体は「きみ」のすべてが理解できないわけではないだろう)。唇の奥から「きみ」の不穏な気配が漂ってくるのは二首目も同様である。
三首目では唇を持つのは「秋」である。唇を通じ「秋」の一部があふれ、他者へ、そして世界へと届けられていく(茱萸の実は5~6月、あるいは10月頃に実る)。唇は不穏な「水」が世界とつながっていく扉であり、境界線なのだ。*2
3)クリスチャニティ・あるいは失われた可能性について
批評会でパネリストの染野太郎氏はこの歌集にはクリスチャニティ(キリスト教性)を感じる語、賛美歌に出てくるような語彙が多く登場すると指摘していた。力、栄光、勝利など、ヒエラルキー性を帯びた語が多く含まれるというのだ。
聖書、キリスト教の世界では神と自分は常に一対一で対峙する。その端的な関係を示すのがクリスチャンの告解だろう。洗礼後に犯した自らの罪を聖職者に告白することで、信者は神からの赦しと和解を得る。神は信者にとって唯一絶対的な存在であり、たとえ家族であっても他者はそこに介入できない。天地を貫く直線的な関係、まさしくヒエラルキーがそこにはある。そして光は直進する線、直線として捉えられる存在だ。
『行け広野へと』に光のイメージが溢れていることは批評会でパネリストの全員が指摘していたように思う。
水原紫苑氏は「傷ましいまでの向日性」と題した項において、この歌集の歌が自己憐憫や死の方角へ決して向かわないと指摘、圧倒的な言葉とエネルギーがあると評した。染野太郎氏は歌の詩的飛躍を読者に受け止めさせるための体言、助辞の使い方について指摘しつつ、歌集に頻出するモチーフとして「光」と「クリスチャニティ」の二つを挙げている。また吉田隼人氏は「光、または視ることの禁忌」と題したレジュメにおいて、歌集の巻頭と巻末に光の歌が置かれていること、またこの歌集の中に登場する「光」はダメージを与えるもの、ある種の負性を帯びたものとして描かれていることを指摘していた。
『行け広野へと』に溢れるまっすぐな光がキリスト教の天の神から降り注ぐものならば、それは隣にいる誰かと共有するものではないだろう。目の前にいるのが神のみならば、それに対峙するのは「神の子」としての自分であり、その時男女の別は後景に退いていく。この視点は自分だけでなく、自分の前に現れる他者に対しても適用される。
つまりこの歌集の不思議な中性さ、水原紫苑氏言うところの「女であることの不如意のなさ」は、歌の作者が実生活の中で性差を意識するか否か、作中主体を中性的なものとして詠いたいか否かといった意識のみによるものではなく(もちろんそれも含まれているかもしれないが)、「神」に対する「神の子」としての意識が先にあることによるものではないだろうか。
神と「私」の関係の絶対性を「私」の世界の基盤に置いた時、「私」の隣にいる他者は「私」から遠い存在となる。ルカ伝では次のようにある。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(ルカ伝 12章51節、53節)
批評会後半の意見交換では歌集について「愛に溢れた、向日性のもの」という評価がある一方で、「偏愛的、多くのものを抑圧し、捨て去っている」という真逆の評価が出ていたが、これはまさしく一神教の神と己だけがいる世界観の説明そのものであろう。染野氏は「単に聖書関係の言葉を使っているからクリスチャニティを感じるのではない、むしろこの歌集では宗教の専門用語を使用していない歌の方にクリスチャニティを感じる」と指摘していたが、この歌集に、偏愛、抑圧、取捨と評されるような要素が現れていることこそ、クリスチャニティの現れなのではないだろうか。
とはいえ『行け広野へと』において、「私」に対峙する神は絶対的に正しいものとしては存在していないように思う。歌集では分かれたもの、失われた可能性へ幾度も思いが馳せられているということは、歌集栞文で黒瀬珂瀾氏も指摘しているところだ。
春に眠れば春に別れてそれきりの友だちみんな手を振っている(10)
陶製のソープディッシュに湯は流れもう祈らない数々のこと(53)
どの町にも海抜がありわたくしが選ばずに来たすべてのものよ(59)
塩の柱となるべき我らおだやかな夏のひと日にすだちを絞る(109)
「塩の柱と~」の歌でモチーフとなっているのは旧約聖書のロトの妻のエピソードである。悪徳の都ソドムを神は滅ぼすことにしたが、善人ロトとその家族だけは救うことにした。ソドムを脱出したロトの一家は天使から振り向いてはならないと忠告されるが、ロトの妻は忠告を破ってソドムの方を振り向き、塩の柱になってしまう。
全能の神が選んだ「善き者」に属する者が、にも関わらず間違いを犯すという観点からみれば、ロトの妻のエピソードは天使の堕天にも通じるものがある。「塩の柱と~」の歌は、良きものであろうとしながら間違いを犯し罰を受けたロトの妻に「我ら」を重ねているのだ。
旧約聖書のヨブ記では信心深い義人ヨブが不条理に遭い続け、なぜ神は己にこのような仕打ちを許すのかと問い続ける。ロトの妻とは逆の構造だが、扱われているテーマは同じだ。すなわち「造物主たる神は全能である筈なのに、この世界は完全ではない」。この議論をライプニッツは神義論(theodicy)と呼んだ。
歌集中で思いを馳せられる分かたれたもの、失われた可能性はロトの妻の背後で滅んだソドムの都に重なる。もちろん、現実レベルでは別離の相手が「悪徳の都」であった可能性はほぼないだろう。だが上に挙げた歌の中で歌われている失われた可能性と作中主体が再会することは、己の背後で滅ぼされた悪徳の都同様、恐らく無い。
一人の人間として生まれたその瞬間から、わたし達は別の人間として生まれたかもしれない可能性を永遠に捨てている。ソドムを脱出したロトの一族はその瞬間、ソドムに残った自分に起こり得る全ての可能性を捨てることを選んだとも言える。
ロトには天使からのお告げがあり、ソドムは滅んだ。ロトの行為は「正しかった」とされている。だが現実世界では失われた可能性の存在自体がソドムのように滅ぶことはあまり無いし、お前の選択こそが正しいのだと天から告げられることも無い。その選択が正しいものであるかどうかは永遠に分からず、だからこそ私達は禁忌を犯し、失われた可能性をいつか振り返ってしまうかも知れない、そんな存在であり続ける。
過ちを犯して滅んでいたのは私であったかもしれない。いや、私もいつか、過ちを犯して滅ぶのだ。この完全ではない世界で、過ちを犯さないなんてことがあり得るだろうか。
(そしてそれでも、世界は光に溢れている)
二度と会うことの無い相手の美しさを思い続けることは、不完全な神と不完全な自分を確認し続けることでもあるのではないだろうか。
4)分裂と情感について
批評会後半の意見交換では、この歌集には他者との共有を拒むような強い偏愛、抑圧、取捨を感じるという意見が出ていたことは前項でも述べた。またそれゆえに、今後作者は他者と共有可能な短歌の叙情、情感を詠っていくことも試みるべきだという意見も出ていた。
短歌の叙情、情感とは何か。批評会の各発言者もその詳細については述べていないため、それぞれが念頭に抱いていたものは実際には異なるのかもしれない。が、個人的にはこれらの、この歌集の強い偏愛、抑圧、取捨を否定的にとらえ、克服すべき改善点とする意見には疑義を抱く。第一に、先にも述べたとおり、私はこの歌集の偏愛、抑圧、取捨といった要素はクリスチャニティの一要素として捉えるのが適切だろうと考える。したがってこの歌集の作者にそれらを「改善・克服」し、短歌の叙情、情感を詠うべきであると告げることは、大げさに言えば作者のクリスチャニティを捨てること、棄教を迫ることにならないか。
第二に、短歌の情感や叙情というのはそんなにも必要なのだろうか。短歌の定型は日本人の叙情を詠い上げるのに適した形であるとよく言われており、批評会で言われた他者と共有可能な短歌の叙情、情感というのもこれに類するものではないかと推測しているが、それだけが人間の感情ではないはずであるし、それ以外のものを詠おうとした試みは過去にも多くあったはずだ。
そもそも批評会で詠うべきと指摘されていた他者との共有を前提とする情感や叙情といったものは、社会の中で生きる人間には必ず、一定以上は生じるものではないだろうか。それはキリスト教的な、神と「私」の絶対的な関係を世界の基盤に置いて生きていても変わらない。他者の存在は相対的に遠くなることはあっても完全に消えてしまうことはないからだ。
実際、聖書の中でも、神と個人の一対一の関係は容易なものとして書かれてはいない。ルカ伝でキリストは、自分は平和でなく分裂をもたらすために来たと弟子たちに告げている。そしてこの歌集において失われた可能性について幾度も詠われていることは黒瀬氏の栞文でも指摘されている通りだ。
他者との共有を前提とした情感や叙情を排することは分裂であり時に苦しさが伴う。
だが私は、情感や叙情を捨て性別さえ超越した「個人」が、情感や叙情を詠うことに適した形であるらしいこの定型で何を詠っていくのか、それをこそ見てみたいと思っている。
最後に、歌集から個人的に好きな歌を一首挙げたい。
キング・オブ・キングス 死への歩みでも踵から金の砂をこぼして (65)
King of Kings(王の中の王)とはキリストのことで、賛美歌には比較的よく出てくる言い回しと思うが、この歌を読んで私の脳裏に真っ先に浮かんだのはヘンデルのオラトリオ「メサイア」のハレルヤ・コーラスだった。
ハレルヤ・コーラスでは曲の半ば、King of Kings, and Lord of Lords,とソプラノが声を伸ばす中、アルト以下の声部によるハレルヤ・コーラスが繰り返される箇所がある。明るく勇壮なニ長調のコーラスを脳裏に響かせながら、しかし歌は一字空けで一転して「死への歩みでも」と続く、その対比が怖いくらいに潔い。
踵から金の砂をこぼしながら歩けばその人の後ろには金の砂が点々と筋になって続く。生きることは何かを遺すことで、そこに美しいものは確かに含まれている(もしかしたら美しいものしか遺さない、という決意さえあるのかもしれない)。それでもそれは「死への歩み」なのだと、コーラスの響く中、はっきり認識しているのだ。どこまでも行く求道者のような、けれどその足取りは決して重たいものではなく、むしろ軽やかですらあるなのではないか、そんな気がする。
※文中の聖書の引用は全て新共同訳による。
※本稿執筆にあたっては照井セイさん、ネムカケスさんに下読みでご協力いただいた。
*1:具体的には水、雨、海、湖、川(河)のいずれかの語を含む短歌を機械的にカウントした。すなわち水鳥、水仙などもカウント対象となる。また逆に、ペットボトル、浮き輪、浴槽など水に関係するが上記の語を含まないものはカウントしていない。なお大森静佳「手のひらを燃やす」では水に関連する語として「沼」もカウント対象としている。
*2:個人的にはこの歌はペローの、善行を行った娘が声を発する度、口から花や宝石をこぼれさせるよう仙女が魔法を掛けたという童話や、日本の保食神の神話なども想起させる。