※この記事は角川短歌2018年11月号掲載の短歌連作及び第64回角川短歌賞選考座談会の内容を一部引用しています。
(初出・2018-11-07)
「コーポみさき」(作者:山階基)は第64回角川短歌賞の次席作品で、50首からなる短歌の連作だ(複数の短詩を並べて構成される一連全体で一作品となっているものを連作という)。ちなみに第64回角川短歌賞の大賞は山川築の「オン・ザ・ロード」、次席は平井俊の「蝶の標本」と「コーポみさき」の2作受賞となっている。作品はいずれも角川短歌2018年11月号に全文掲載されている。選考委員は伊藤一彦、小池光、永田和宏、東直子の4名である。
白い布はずされながら美容師にまだ引っ越しを伝えていない
この歌から始まる「コーポみさき」は作中主体「わたし」(作中主体とは短歌1首、あるいは連作全体の「主人公」のこと)の引っ越しとその後の生活、周囲の人々とのエピソードなどが描かれる。連作全体や、連作を構成する各歌の詩としての魅力―例えば生活描写や口語短歌としての―や技巧については、いずれどこかで論じられるだろう。大賞作「オン・ザ・ロード」、次席の「蝶の標本」についても今後論じられていくだろう。
短詩の詩情や技巧、一首としての屹立性について、私は語る自信がない。だから書くのは別のことだ。この文章ではタイトル通り、短歌連作「コーポみさき」が小説化可能かどうかについて検討したい。なぜならこの連作は選考座談会で、この設定を小説で書くならばわかるのだがといった趣旨の評をされているからだ。
「コーポみさき」は短歌50首から成る。冒頭9首で「わたし」が引越しをすること(1首目)、一人暮らしではなく誰かと二人で暮らすこと(3首目)、けれどその相手は恋人ではない(4首目)ことが示される。一緒に暮らす相手は異性の友人のため(14,20首目)、二人が共に暮らす理由や結婚の予定について、物件を探す際、不動産屋などから聞かれる羽目になる(10,13、14首目)。結局賃貸の契約書には「婚約者どうしのほうが借りやすい部屋というからそのように書く」ことになった(18, 20,21首目。なお「」内は18首目)。やがてふたり暮らしの部屋に、「わたし」の恋人が訪れ(34首目)、「わたし」とその恋人、同居人は三人で鍋を囲む(45首目)。……ストーリーラインだけをざっくり追えばこんな感じになる。
選考座談会では東直子がこの連作について、議論の冒頭で以下のように整理している。
「……コーポみさきに誰かと住むことになった、同居する相手は異性の友だちで、遠いところにいる恋人は同性と、私は読みました。使い分けとしては、「きみ」が恋人で、「あなた」が一緒に住む人。」(余談だが筆者は初読時、この連作における人称の使い分けについてはまったく気づいていなかった)
選考座談会では「コーポみさき」の主要登場人物が三名であることについて「話が複雑になり過ぎる(小池)」「だから説明に追われる(伊藤)」との指摘がされ、最終的に「例えば一篇の小説を書いて(永田、伊藤 そうそう)、こういう三人が出てきて、新しい三人の関係を書くとか言うならわかるんだよ。でもそれを短歌で、というのはどうですかね(小池)」という言葉で締められている。その後、大賞候補決定の過程で本連作について改めて議論の結果、「コーポみさき」は同点を獲得した「蝶の標本」とともに次席二篇となった。
「……三人出てくるのは多過ぎる。短歌は二人まででないと話が複雑になり過ぎる(小池)」という指摘の妥当性について、私は判断材料を持たない。が、「コーポみさき」で人物関係が分からない、複雑だと選者から言われているのは登場人物が三人であるから「だけではなく」、作中主体「わたし」以外の人物の書き分けが人称「あなた」「きみ」の使い分け「のみ」によってされているからではないかと思う。
「卯の花がすきなあなた」(3首目)、「声があたたかい」きみ(6首目)、「ゆるくふくらむ」布団の中にいるだろうきみ(31首目)、「献立の案をぽつぽつ並べてくれる」あなた(34首目),「アロエの鉢を器用によける」きみ(37首目)、「部屋を借りるためのはずみの婚約を笑ったきみ」(38首目)……。この連作では「きみ」や「あなた」の存在は歌のシーンを構成する一要素であり、その姿(外見、性別はもちろん、社会的属性も)を歌の中心として描くことは回避されている。
「コーポみさき」の主題が「同性の恋人と異性の同居人」で「三人出てきます、そう読んでください」と示したかったのなら、そのための方法は幾らでもあっただろう。
「あなた」や「きみ」が喉仏をもつこと、ブラジャーを付けること。声が低いこと、あるいは高いこと。ネクタイを締めること。スカートを履くこと。化粧をすること、髭を剃ること……。「あなた」や「きみ」の肉体的特徴や性別、その差異について31文字の中にさりげなく示すような歌が連作前半にあれば、この連作の登場人物たちのイメージはより「明確」になっていた筈だ。しかしそのような描写を入れることで連作の内容をわかりやすくしようとすることは、料理が得意といっているからこれは女性だろう、機械いじりが好きといっているからこれは男性だろうといった、ステレオタイプなジェンダー描写で登場人物の性別を判断する読者の在り方をそのまま肯定するようなものだ。(そもそも声が低いから男性だと、高いから女性だと、どうして言い切れるだろう?)
小説ならばステレオタイプ描写をしても「取返しがつく」かもしれない。あるパートでステレオタイプに乗っかったような描写をしたとしても、別のパートでそれを裏切るような描写をすることで、その人物についての描写を重層化することも可能だろう(もちろん、そもそも最初からステレオタイプ描写をしないという選択肢もあり得る)。しかし1首が31字、連作として構成しても1首単位で引用され、評される短歌の場合、この戦略は使えない。ではどうするか。
ならば最初から、ステレオタイプなジェンダーロールに沿いそうな語彙や表現を作品からことごとく排除すれば良い……というのが「コーポみさき」の戦略なのではないか。
ちなみに作中主体「わたし」の性別については、選考座談会を読むと46首目の「湯たんぽのようなあばらに頬をあずける」という描写から男性と判断されているようだ。しかしあばら骨は人間の女性にもあるし、皮下脂肪の量は男女ともに個人差が大きいので46首目が決定的な判断根拠になったとは思えない。想像だが、作中主体の性別は46首目以外の歌の表現と合わせて、総合的に推測されたのではないか。例えば各歌の口語の語尾の処理。同居人が献立の案を出してくれたこと(34首目)。恋人が免許を取って車を買う予定であるらしい(40首目)ことなどと合わせて、この作中主体は男性と判断されなかったか。
個人的には41首目「泡風呂に~」の方がまだ判断根拠になりそうだと思ったが、これは私のバイアスかもしれない。この連作の作中主体の性別を「どの歌の・何で」判断したか述べることは、述べる本人のジェンダー観を周囲にわかりやすく示すことになるだろう。
「きみ」「あなた」及び「わたし」の性別及び肉体的特徴を示すような情報が少ないということは、本連作の設定について、複数のパターンが想定可能であるということでもある。選考座談会ではこの連作は「作中主体が男性、恋人は同性、同居人は異性」と解釈されているが、この連作を「これはレズビアンの女性が作中主体の短歌連作である」と心の中で唱えてから読んでみても恐らくそこまで致命的な違和感は生じない、と思う。同性愛以外のセクシュアリティーの設定で読める可能性もあるだろう。
それはこの連作が、男とはこのようなものであろう、女とはこのようなものであろう(だからこの歌はこのような内容・状況を描いているのであろう)といった言説に傷ついたことのある人すべてを排除せずにいようとする取組である、ということでもあるのではないか。
とはいえ、そもそもこの連作は「同性の恋人と異性の同居人」という設定や関係性が主題なのだろうか、とも思う。
「同性の恋人と異性の同居人」という設定の連作であると最初から説明されると、まるでこの連作は3者の人間関係が主眼で「きみ」や「あなた」について詠んだ歌ばかり並んでいるかのように感じてしまうが、登場人物3人が一堂に会したとはっきりわかるのは45首目、連作の終盤だ。
更に、同居人「あなた」と恋人「きみ」の描写の量には偏りがある。連作50首中「きみ」という言葉が出てくる歌は9首、「あなた」は3首。短歌連作の場合、その歌自体に具体的に人物を特定できるような描写がなくても前後の関係から“これはひとつ前の歌の「あなた」のことを詠んでいるのだろう”などと推測することも可能だが、それを含めて考えてもやはり偏りがあるし、50首という全体のサイズに対して多くはないと思う。本連作の設定について複数のパターンが想定可能であるということを踏まえても、3者の人間関係を主題と位置付けるのは大げさすぎるのではないか。
具体的に言えば連作前半、作中主体とともに部屋探しする同居人「あなた」(14~21首目)は、移動する車の中でも「わたし」とともに無言のまま(14首目)、異性二人で暮らしていれば実際には結婚しなくても夫婦に見られるだろうという大家の言葉(20首目)や、作中主体と暮らすことについてどう思っているのか、この連作からは殆ど読み取れない。「あなた」は『作中主体と一緒に部屋を借りる異性の存在』という、読者に設定を理解させるための役割しか持たされていないように思える。連作後半、作中主体の恋人が来訪する際の献立についてぽつぽつと話した時(34首目)、読者はようやく「あなた」に表情らしきものが現れたように感じるのではないか(私はそうだった)。
対して恋人の「きみ」は歌に詠まれる回数こそ「あなた」より多いが、電話でやりとりするなど、遠く離れた場所にいるのでやはり姿は見えない(4,5,6,9,30,31首目)。恋人の新しい生活について点滴のように語られ(30首目)、おいでよと呼びかけられる(39,46首目)「きみ」は連作中ほとんど常に「受け取る」側の存在だ。
声を聞く。呼びかけ話す。隣に立つ。共に生きていく、生活をする。この連作の作中主体「わたし」の傍にはいつも誰かの気配がある。でも視線は合わない。接触は少ない。
私はこの連作についてよしもとばななの小説「キッチン」のような、明るいけれどどこかさみしさのある世界だと感じたけれど、それは「きみ」も「あなた」も「わたし」からどこか「遠い」と感じたからだと思う。そしてそれは恐らく選考委員らが「わかりにくい」といった理由と同じ理由によるものなのだ。
改めて、冒頭の問いに戻る。「コーポみさき」は小説化可能か。
登場人物の性別やセクシュアリティについてあらかじめ設定し、同性の恋人と異性の同居人という設定を明示しながら物語を展開することは当然可能だろう。設定については地の文で作者が断言しても良いし、登場人物たちの会話の中で徐々に明らかにしていってもよい。いくらでも方法はある。が、性別やセクシュアリティの明示ならば短歌連作でも実行不可能ではない筈だということは既に述べたとおりだ。
では登場人物の性別等を決めずに話を展開していくことは可能だろうか。例えば一部の登場人物の性別について、物語のクライマックスで明かされる「正解」を設定し、読者のミスリードを狙うといった構成は可能と思われる。
こうした手法は叙述トリックと呼ばれる。叙述トリックとは小説形式が持つ暗黙の前提や読者の偏見(ステレオタイプ)を利用したトリックで、登場人物の話し方や名前で性別や年齢を誤認させるのはメジャーな手法の一つだ。「コーポみさき」の場合、例えば恋人「きみ」を男だと読者に思わせるような描写をしつつ最終的に女性だと明かす(あるいはその逆)といった展開は可能だろう。大家などの台詞に気を遣えば作中主体の性別をミスリードすることもできそうだ。
しかし登場人物3名全員の性別が最後まで特定できずどちらとも読めるようにしたまま、現代日本で同性の恋人と異性の同居人という設定は提示し、かつ違和感なく話を展開させる……つまり、「レズビアンの女性が主人公の小説」にも「ゲイの男性が主人公の小説」にも読める小説を書くことは可能か、となるとこれは相当技術が必要ではないかと思う。
多くの場合、小説の地の文は事実であると読者に認識される。したがって「コーポみさき」を三人称小説として書く場合、登場人物について、彼、彼女、あの男、その女等といった表現は一切使えない。登場人物の一人称等についても気を使う必要があるだろう(前述の叙述トリックとはまさにこうした技術を使って読者を攪乱するものであり、このような技術は連作「コーポみさき」でも使われている)。そのような縛りのある中で、例えば人物同士で会話するシーンについてどう書けばよいのか。作中主体「わたし」は恋人「きみ」からどう呼ばれるのか。同居人「あなた」からはどうか。どんな口調で話すのか。それぞれの口調はどう書き分けるのか……。シーンが増えれば増えるほど、難易度は上がるだろう。なるほど小説に定型はなく、31文字を超え、視点や時点を変えて書くこともできる。物語を作りたいなら小説でやればよい、短歌連作で物語を作っても小説には勝てないという主張は、だからしばしば見かけるものだ。
しかし書けてしまうからこそ、短歌では読者がそれぞれの想像でぼんやり補完するであろうことを「省略し続ける」ことが、恐らく小説ではできない。
すべての条件をクリアしつつ、連作で描かれたシーンやエピソードを全てを小説として書き込むとなると、正直私はできる気がしない。……いやそもそも、小説で読者のステレオタイプについて問題提起するような作品を作ろうと思うなら「レズビアンの女性が主人公の小説」にも「ゲイの男性が主人公の小説」にも読めるような小説を書くのではない、もっと別の方法が選択されるのではないだろうか。「コーポみさき」の戦略は31文字しかない短歌という形式の解釈戦略、そこにある読者の無自覚なステレオタイプの使用と密接に絡み合っている。
短歌は一人称の文学と言われ、読者は作中主体の視界を借りて作品世界を歩き回ることができる。また作中主体について、小説のように常に具体的な設定が示されるわけではない。小説等において登場人物たちが固有の名や設定を持つことは作品としての強度を上げるが、それは同時に「これは読者『わたし』ではない別の場所の別の人格についての話である」という「他人事感」を強調することでもある。一方、定型ゆえに具体的な設定が省略される短歌は時に映像や小説、ドキュメンタリーといった他の媒体とは異なる、独特の没入感を生じさせることがある。それは例えば戦争や災害体験、病気や死別の経験などを詠んだ作品などで顕著に現れるように思う。
「コーポみさき」は戦争や災害体験を詠んだものではない。読んでいてショッキングな表現はないし、激しい感情表現も少ない(33首目「だとしても~」が、作中主体が激しい感情らしきものを表す、ほぼ唯一の歌だと思う)。けれど日々の生活の中にも抑圧や痛みは存在する。これは他人事の作り話ではなく私自身のことだと、これは私の受けた抑圧であり痛みでもあると、あらゆる読者に思わせるのは、同じ設定の小説ではなく、この短歌連作なのではないか。そして短歌にはそのような形で「語る力」もまたあるのではないか、と思うのだ。
2018/11/23追記:
本記事に関連してtwitterで杉田抱僕氏から、三浦しをんの小説「遺言」(『天国旅行』所収)が、作品の最後まで登場人物の性別が明らかにされない小説ではないかというご指摘がありました。『天国旅行』は新潮文庫では角田光代が解説を書いており、当該作品については以下の通り書かれている。
「そして、「遺言」の二人、私は自然と夫婦と思って読んだが、そのようには明記されていない。婚姻していない男女かもしれず、女性同士、男性同士ということもあり得る。」
「遺言」は文庫本で36頁、およそ2万字強の作品。登場人物「私」「きみ」そして「某」の描写のギミックを面白く読みつつつつ、この手法で物語を語るのは設定その他、やはり非常に難しいなと改めて思った次第である。
(なお同作について角田氏の「婚姻していない男女」という解釈を私自身は当初思いつかなかったが、この解釈だとまた別の景色が見えてくるように思う。複数の設定を行き来させながら読むと、この作品の「私」には敢えて書かなかったことが沢山あるのだな、ということに気付く気がする)
2019/05/06追記:
2019年5月6日の文学フリマ東京で頒布開始された稀風社「うに―uni―」特集「連作という影」に「コーポみさき」作者の山階基さんが寄稿された文章「大反省」にて、本稿を紹介・引用頂きました。ありがとうございます。